神戸牛観光倶楽部

神戸ビーフ・神戸牛観光倶楽部は、神戸牛のブランド価値の維持と神戸の活性化に寄与して参ります。

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神戸牛の歴史

神戸牛と外国人

外国軍艦乗組員たちの肉への渇望

牛はいるのに肉がない!

日本人にとって牛は長らく、日々の労働を助ける使役動物でした。運搬や農耕などの重労働を人に代わって担ってくれる、いわば仕事上のパートナーというべき存在だったのです。そんな日本人の暮らしの中に、「牛を食べる」発想など生まれるはずもありません。しかし慶応に入ったころから、そんな日本の食意識にも変化の時が訪れます。

きっかけとなったのは、慶応3年の神戸港開港。今からわずか、150年ほど前のことです。開港を機に外国船が次々と寄港するようになると、周辺には次第に外国人居留地が形成されはじめます。西洋文化の中には食肉の風習が浸透していましたから、滞在する外国軍艦乗組員たちにとって食肉は極めて自然な行為。兵庫開港以前に横浜居留地の商人によって但馬産の牛が外国に運ばれ、このころ既に高い評価を得ていたこともあり、そこに暮らす外国人たちは当然盛んにその肉を求めました。しかし当時まだ牛肉を食す習慣のなかった日本では、食用牛肉を計画的に生産・供給する仕組みもなく、食べたくても食べられないという状況が続いていたようです。

そこに一石を投じたのが、エドワード・チャールズ・キルビーというイギリス人実業家。旧生田川の東に屠畜場を借りて、外国人向けに牛肉の販売を開始したのです。

文明開化とともに広がった食肉文化

肉屋第1号の店主は英国人!

それを契機に、神戸港周辺に暮らす日本人たちの間にも、徐々に食肉の風習が広がりはじめます。その後、明治時代の文明開化とともに外国文化が急速に浸透しはじめると、日本人にとって牛肉を食べることがいわば流行のようになり、牛肉を使ったすき焼き店がここかしこに登場。もともと外国人の手によって興された牛肉マーケットでしたが、日本人の牛肉店や牛肉料理屋が続々と登場し、明治4年には、全国で初めての日本人経営屠殺場「鳥獣売込商社」も設立されます。食肉文化はその後もさらに広がり続け、明治8年以降にもなると、牛肉の生産から加工、販売業のほとんどが日本人によって独占されるようになっていきました。